妊婦死亡事故で胎児は“被害者”になれるか:名古屋地検が“過失運転致傷”を断念した理由

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2025年5月、愛知県一宮市で妊娠9か月の女性が車にはねられて死亡し、お腹にいた赤ちゃんも重い脳障害を負って生まれるという痛ましい事故が起きました。

遺族は「生まれてきた娘も被害者だ」と主張し、加害者の運転手に対して胎児への過失運転致傷罪の適用を求めました。

ところが、2025年11月、名古屋地方検察庁(以下「名古屋地検」)は、胎児だった子への罪を問うことを断念すると発表。

なぜ“胎児=被害者”の道は閉ざされたのでしょうか。

当記事では、日本の法制度の現状と社会的な論点を整理し、この判断の意味を考えます。

目次
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日本の法律における「胎児」の扱い

日本では、現行の法制度において、胎児の法的地位は極めて限定的です。

民法では、損害賠償請求権を行使できるのは「出生した人間」であり、胎児は人としての「権利能力の主体」とは認められません。

つまり、胎児自身が加害者に対し損害賠償請求をすることは原則としてできません。

道路交通法・刑法の観点でも、胎児が“人としての法的主体”とみなされない限り、胎児への刑事責任追及は難しいとされてきました。

たとえ出生後に重い障害が残っても、事故当時は“胎児”だったというだけで、被害者適格を否定されやすいというのが現実です。

このような法的構造があるため、たとえ胎児に対する損害が明らかでも、刑事事件として加害者を起訴するには大きなハードルがあります。

遺族・社会の視点

この事故では、遺族が「胎児だった娘も被害者だ」として、強く刑事責任を求めました。

父親らは、「生まれた命を失わせ、重い障害を負わせたのだから、加害者にも責任を」と訴えました。

多くの署名や支援も集まり、「胎児も被害者に」とする世論の支持が見られました。

一方で、法律の壁は高く、「胎児を人と認めるかどうか」は個々の事件を越えて、社会や立法の根幹に関わる問題──命の始まり、被害者適格、刑事責任のあり方──を含んでいます。

このギャップは、「法律の硬さ」と「人の感情・倫理」のズレを浮き彫りにしています。

国内での先例と論点

過去には、胎児の被害者性を一定程度認めた判例もあります。

例えば、交通事故により妊娠中の母親が早産となり、生まれた子供が重い後遺障害を負ったケースでは、加害者に対し損害賠償や保険金請求が認められた例も存在します。

また、裁判所の判断によっては、「胎児期の受傷 → 出生後の障害」という流れに因果関係を認め、被告の責任を認めた判決も。

こうした例は、胎児の「将来的な人間性」「出生後の権利能力」を重視する立場からの判断です。

ただし、これらはあくまで例外的。

一般化された法理とはなっておらず、判例もケースバイケースで判断されます。

胎児の法的地位を巡る論点には、今なお大きな不確実性があります。

なぜ今、この問題が再び浮上したか

「妊婦+胎児」という構造で重大事故が起きたことで、胎児の被害者性・加害者責任の問題が再びクローズアップされました。

高齢ドライバーや交通量の増加などで交通事故全体が増加しており、歩行者や妊婦、子供の安全への社会的関心も高まっています。

医療の進歩で、妊娠後期の胎児が緊急帝王切開で救命されるケースが増え、「胎児期の受傷 → 出生後の重い障害」という流れが以前より現実の問題に。

今回のような重大事故を契機に、社会全体で「命の始まり」と「被害者適格」のあり方を問い直す機運が高まる可能性があります。

ネット上での反応と声

ネット上では、この判決・決定を受けて様々な声があがっています。

・「胎児も命。法律の解釈が現実に追いついていない」

・「生きている子が重い障害を負っているのに、なぜ加害者に責任が問えないのか」

一方で、

・「法律を後付けで変えるのは慎重に」

・「出生前の命の定義にはいろんな考え方がある」

という意見も。

こうした議論は、単なる“遺族の感情”だけでなく、社会の倫理観、公平性、法制度のあり方──広く社会全体の根幹に関わるものです。

まとめ

今回の事故と名古屋地検の判断は、単なる一事件の結論ではなく、日本の法制度が「胎児」をどのように捉えてきたか、その限界を改めて示すものです。

現行法のもとでは、胎児が法的主体として扱われることは極めて限定的であり、刑事責任追及や賠償請求には大きな壁があります。

一方で、遺族や社会の声、そして過去の判例では、「出生後に障害を負った子供も被害者である」という考えを認めた例も存在します。

この矛盾──「命の重さ」と「法律の仕組み」のズレ──に向き合うとき、私たちは単に“どうあるべきか“を語るだけでなく、社会としてどのような救済を認めるべきかを真剣に考え直す必要があります。

今回のような悲劇を2度と繰り返さないためにも、「胎児の被害者性」を巡る議論を社会的なものとして深めることが求められています。

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この記事を書いた人

当サイトでは主に話題の時事ニュースを扱っています。

筆者は富山県出身&富山県在住。

Bリーグの富山グラウジーズを応援しています。

写真の撮影をしており、撮影の対象は選手やチア、綺麗な風景です。

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