1992年11月23日、日本で“風船おじさん”として知られる鈴木嘉和氏が、ヘリウム風船に吊られたゴンドラで太平洋横断に挑み、そのまま消息を絶ちました。
あまりにも無謀と評されたこの冒険は、今なお語り継がれる都市伝説として記録に残っています。
当記事では、彼の人物像、挑戦の経緯、事件の全容などについて深掘りします。
風船おじさん・鈴木嘉和氏とは何者だったのか?
鈴木嘉和氏は元々、ピアノ調律師としてキャリアをスタートし、その後は音楽教材販売会社を設立。
さらにイベント主催や飲食店経営にも手を広げましたが、事業はうまくいかず多額の借金を抱えました。
そんな彼が注目を集めたのが、1989年の横浜博覧会での“鉄塔立てこもり事件”。
着ぐるみ姿で動線改善を訴える姿は新聞でも大きく報道され、奇抜な発想と行動力が世間の注目を集めました。

太平洋横断計画の始まり
鈴木氏の太平洋横断計画は、借金返済と人生再起をかけた一大プロジェクトでした。
同志社大学の教授と交流を持ち、「環境保全」を名目に掲げたこの挑戦は、島根県からアメリカ・ネバダ州を目指すという壮大な計画でした。
その象徴となるのが、自作の檜製ゴンドラ「ファンタジー号」。
アドバルーン専門業者の風船32個と焼酎を使ったバラストという、ユニークかつ素人感あふれる装備で注目されました。
1992年4月には多摩川でのテスト飛行も実施し、5000m以上の高度に達するなど、危険性が顕在化していました。
運命の日・琵琶湖からのゲリラ離陸
1992年11月23日、滋賀県の琵琶湖で行われた「試験飛行」。
しかしこれは単なるデモではありませんでした。
午後4時20分ごろ、鈴木氏は「行ってきます」と言い残し、係留ロープを自ら外して離陸。
許可のない“ゲリラ飛行”を敢行します。
本来6個の予定だった主力風船は4個に減少しており、離陸直後には焼酎200本と酸素ボンベを投棄して急上昇。
この瞬間がテレビ番組でも収録され、全国に衝撃を与えました。
なぜ「風船おじさん」の冒険は無謀だったのか?
一見ロマンあふれる挑戦のように見えた風船おじさんの冒険ですが、計画の甘さと装備の貧弱さは致命的でした。
・高度1万m級の極寒に毛布とスキーウェアのみ
・通信手段は当時のアナログ携帯電話
・酸素ボンベを投棄しデスゾーンへ突入
・操縦装置も着陸手段も不在
加えて、ジェット気流に乗れるかは完全に風任せ。
位置特定も困難で、アメリカに到達しても人里に降りられる保証はなく、“生還”とは程遠いものでした。
その後の捜索と「風船おじさん」の消息
飛行後、鈴木氏は数回にわたり家族やテレビスタッフと連絡を取っていました。
「海に出た」「朝焼けがきれい」などの言葉を最後に、携帯は不通に。
翌24日~25日には緊急信号が発信され、海上保安庁の捜索機が金華山沖800kmで機体を確認。
鈴木氏は手を振り、飛行継続の意思を示したため、追跡は中断。
その後、鈴木氏の姿は再び確認されることなく、現在に至るまで行方不明のままです。
ネット上での反応と声
ネット上では風船おじさんの冒険について、様々な意見が飛び交っています。
・「ロマンがある」「現代の冒険家」という称賛
・「無謀すぎる」「自殺行為」という批判
・「あの行動力はすごい」「夢を追う姿勢は尊敬」など共感の声も
動画サイトでは当時のニュース映像が繰り返し再生され、YouTubeやSNSを通じて新たな世代にも伝説として語られています。

まとめ
33年経った今でも「風船おじさん」鈴木嘉和氏の挑戦は語り継がれています。
技術も資金も不十分な中で、大空に夢を託したその姿は、現代人に「夢とは何か」「挑戦とは何か」を問いかけ続けています。
無謀であると同時に、強烈な個性と情熱に満ちたこの事件は、単なる失敗談に留まらず、1つの伝説として記憶され続けるでしょう。

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